組織に“ライ”の正体を知られ、赤井は本国への帰還を余儀なくされていた。不本意の離脱だった。本来であれば、あのまま逃げるのではなくむしろ自身を囮にしてでも組織と接触してしまいたかった。だがあまりにもリスクが大きかったのだろう。本国とは訳が違う、日本という異国の地で出来ることは限られている。その上、大胆に動けるほどの証拠も揃っていなかった。
とはいえ、それで気が済むはずもない。あれほどの潜入期間を経ても彼らの影すら踏めない現状に納得など出来るはずが無かった。赤井は今日も、本部の地下室へと続く階段を一人降りながら、行き場所のない苛立ちを沈めに向かう。組織に関する資料はもう穴が開くほど目を通している。しかしそれ以外にもまだ何か、FBIが気づけていない組織の痕跡が過去の事件に散らばっているのではないか。そうして時間を忘れるほど手を動かしていれば、気持ちが幾らかマシになるのを知っていた。
ー先約か……。
暗闇に漏れ出す淡い光。その光源が目的の資料室であると分かるからこそ、彼は一歩、踏み出していた足を止めた。今夜はこのまま、一人静かな部屋で気の済むまで過去の資料を見漁る算段だったのだが一体誰が、深夜0時を過ぎた時間に人がいると予想するだろう。このまま引き返そうとも思ったが、片手には別件で持ち出していた資料がある。仕方なく、これだけ棚へ戻そうとドアノブへ手をかけると目線の先、小窓からは見慣れない小柄な女の背中が目に入った。中央に置かれた広い机の上には、膨大な量の捜査資料が積み上がっている。不安定に積み重ねられたそれは今にも崩れそうなのだが、彼女は背を向けていて気づいていない。
「おい、」
「っ!!!」
ドアを開ければ、彼女が大きく肩を揺らした。
「っ……すみません、!びっくりして……」
女は振り返りながら、腕に抱えていた何冊かのファイルを抱え直す。数回、瞬きを繰り返すと赤井に視線を向けた。瞳の色は漆黒。真っ直ぐすぎる瞳は思わず目を背けてしまいたくなるほど。それでいてどこか儚く、不安げだ。その瞳が妙に脳裏に張り付いてしまう。日系人らしいその顔立ちも、見ていてどこか居心地が悪い。
赤井は嫌な思考を遮るように、片手を上げて彼女の言葉を制した。すると、やはり。思っていた通り机の上に積み上げられた資料が、スローモーションのように崩れていく。
「っ、ま、って……!!」
彼女の悲痛な叫びも虚しく、資料は床に落下していく。硬いファイルが床にぶつかった衝撃で派手に音が鳴った。よくもまあ盛大にぶちまけてしまったものだ。しんとした静寂が、余計に追い打ちをかけたのだろう。彼女はしばらく動けずにいた。
「っ、す、すみません……!」
我に返ったように慌てて抱えていたファイルを机の上へ置くと、彼女はその場にしゃがみ込む。またやっちゃった、と小さく続ける彼女は髪を掻き上げながら頭を抱えている。
「こうなるって分かってたのに……何で、っ」
無意識に独り言が出てしまうタイプの人間なのか、彼女は後悔に似た反省の言葉を呟いている。そんな姿を見て厄介なことになったと思う反面、気がつけば赤井も足元に散らばってきた資料を数枚拾い上げていた。
「ああっ!そんな大丈夫です!すみません、ここは私がやるので!」
彼女は慌てて赤井の手元から資料を引き抜くと、すぐさま床へと手を伸ばしていく。大丈夫と言われたものの、床には無数の紙切れが散らばっており、それを彼女一人が床に張り付いて拾い上げている中、見て見ぬ振りもできない。それに、この状況を厄介だとは思ったものの面倒だとは思わなかったのだ。長らく触れていなかったような、人の呼吸を感じたからだろうか。警戒する必要の全くない、むしろ守ってやらねばならないと本能的に感じ取ったからだろうか。ころころと表情が変わる彼女を見ながら、シンプルに言えば気が抜けてしまったのだろう。常に張り詰めた緊張感の中を生きていた赤井にとっては新鮮で、それでいてもう手に入らない日常を一瞬にして思い起こさせられた。
「あ、あの……?」
しばらく立ち尽くしていたからか、彼女が不思議そうな目をして赤井を見ている。
「……なんだ」
「あっ、えっと……それを戻しに来られたんですよね?」
赤井の脇に挟まれたままの資料を見て、彼女が首を傾げる。
「良ければ私が戻しておきますよ!こんな状況ですし」
こんな状況、と揶揄するほどに資料室は以前来た時よりも荒れていた。さらに今夜は彼女が大量の資料を持ち出しているからか棚の中はがらんとしており、赤井の資料を元の場所に戻すのは一苦労だろう。
「ああ、助かる」
「……ちなみに、これは私が散らかした訳ではなくて、その、整理?している最中でして……こう、結果的に今は散らかっている状況なんですけど」
「別に何も言っていない、勝手にしてくれ」
「……はい、じゃあこちらの資料は頂きまして。……ちなみに今日って何かを探しに来たんですよね?」
必要であれば先に用意しますと、彼女は続ける。そうして床に散らばった資料を回収しながら、赤井の返答を待っていた。
「何故そう思った?」
興味本位でそう聞いてみれば、彼女は手を止めた。赤井の方を振り返りながら、そうして軽く宙を見上げている。
「うーん……こんなに遅い時間に、わざわざ資料だけを返しに来ることはしなさそうだと思ったからです。私とお話している時点で急ぎの案件ではないのだと思いますが、それでも今夜であるべき案件?だったのかと……」
「……いい読みだな」
「ふふっ、良かったです。ではお目当ての資料を教えてください。ここ以外の資料室ならほとんど整理できているので、案外早く見つけ出せるかもです」
「ここ以外……?まさかガレージも、君が?」
本部に運び込めない大型な証拠品や押収物はガレージに収めている。大概が乱雑に置かれている上、古いものは奥へ奥へと押し込まれており、稀にそれが必要になった時、若手が苦労して探し出してくるのが通例だ。だが最近誰かが、ガレージが綺麗になっていたと声を上げていたなと赤井は思い出す。急に点と点が線で繋がったような感覚を得るが、しかし。
「資料室に事務員を雇ったという知らせは、聞いていないんだがな」
気づけばそんな皮肉を彼女に言っていた。彼女が捜査官であるのは、数週間前に廊下に張り出されていた掲示で見た記憶により確か。まだまだ学ぶべき事が山ほどあるはずの新人捜査官が、真夜中にこんなところで雑務をしているとは思いもしない。それに、彼女自身が今の状況を不当な扱いではなくむしろ必要なことだとすら思っている様子であるのにも、腹が立ったのかもしれない。君の言い分を聞かせてみろと言いたげに鋭い視線を向ければ、彼女は小さく唸った。
「うーん……でも実際、そんな感じなんです」
僅かに自嘲にも似た笑みを浮かべながら、それでいて悲観的すぎない。客観的に自分のことを見ているような言い回しだった。
「実は私、ここに配属されてからまだ外に出たことなくって。……あっ、もちろん仕事中にっていう意味ですよ?」
想像通りの冷遇に、彼女の配属先のチームの色がはっきりと分かる。恐らく大した仕事をさせてもらえていないのだろう。通過儀礼と言わんばかりに、必要以上の雑務を新人に押し付けるという上司が未だにいるとは呆れてしまうが実際にいるにはいるのだ。それに相手が小柄な女であれば尚更。小さく微笑む彼女の瞳はどこか遠くを見ている。
「私、いる意味あるのかなーって思ったりしますけど。でも!嘆いていても仕方がないので、いっそのこと資料整理のプロとして名を挙げてみせようかなって思っています!この資料も頭に入れたらきっと役に立つことだってあるって思って」
それで何をお探しなんですか?と、彼女は気持ちを切り替えたように視線を赤井に向けた。先程までとは打って変わって凛とした表情だった。それにしても捜査官にしては随分と小柄な子だ、と彼は思う。その手首の細さに思わず目を疑ってしまった。その腕で一体、何ができるというのだろうか。
「あの……?」
「製薬会社に関わる、過去の事件について調べている。十五年以上前のものが対象だ」
「んー、それなら!」
彼女は目を輝かせながら奥の部屋へと駆けていく。彼女の後を追っていくと、何やら大きな段ボールを抱えていた。彼女の上半身が隠れそうなほど大きなダンボールを見て、さすがに手を貸そうと足を一歩動かすも、すぐに踏み止まった。彼女はダンボールを難なく膝の上に乗せると、更に分厚いファイル数冊を乗せてみせる。
「大丈夫です!そっちに持っていきますねー!」
既にアカデミーを卒業し正式に捜査官として配属されたのなら、この程度どうってことはないのだろう。だが、どうにもまだ彼女が捜査官だという認識が出来ていない。それほどまでに彼女はこの世界は似つかわしくなく、異質に見えた。
「えっと、今から十五年から二十年程前に起きた事件はこれで全部です。それ以前となると……」
「いや、ここまでで構わない。助かるよ」
これほどの量を数分の間に用意し切ったのだから、資料整理のプロというのはまんざらでもないのだろう。だが、その記憶力は本来別の場所で発揮すべきだ。それを口にしないまま赤井が椅子に腰を下ろすと、彼女は静かに元居た棚の方へと離れていく。
しかし、彼女の存在がやけに気になってしまう。同じチームでもない彼女が、どんな仕事をしていようが関係ないことだ。そう思うのに、なぜか資料の中身は一切頭に入ってこない。
「……何だ、」
「い、いえ……っ!」
それに、先ほどから感じていた視線も気になる理由の一つだった。しかし訳を尋ねれば彼女は口籠る。その姿を見ると、どうにも苛立ちを覚えてならない。
「全く、」
「……え、?」
「話し合う機会を自ら放棄するなど、馬鹿のすることだ」
そう口走った直後、言いようのない居心地の悪さに見舞われる。苦い記憶が脳裏にちらついていた。苛立ちを鎮めるために此処へ来たはずが、結局これだ。構う必要のない相手に必要以上に接近した己にも非があるのだろう。それを感じているからこそ赤井はこの場を離れようと立ち上がる。
「放棄したわけじゃありません」
しかし、彼女の真っ直ぐな声に赤井の足が止まった。凛としたその声に意識を奪われる。
「私はただ……やっと誰かの役に立てたような気がして、嬉しかったんです。……でも捜査官なのに、こんなことで喜んでいたらそれははそれで恥ずかしいなって、そう思って」
「……」
「だから、ありがとうございますって本当は言いたかったんですけど……でも改めてそれを改めて言うのはちょっと恥ずかしいですし」
とりとめのない彼女の言い分は半分も理解できなかったが、沈んだり、華やいだりする彼女の表情は惹きつけるものがある。新人特有のものだろうか。いや、彼女の性格故だろう。少し砕けたような、それでいて柔らかい雰囲気は、敵意も、嫌味の一つも感じられない。清いまま、他人の心をも溶かす不思議な温かみを感じる。
「とにかく!もし何か追加で必要なことがあれば言ってください。私はこの通り、手だけは空いているので!」
真っ直ぐすぎる瞳は、どうにも眩しすぎて目を反らしたくなる。
「あのー?」
しかし、それでも見ていたいと思った。これからの彼女がどうなるのか、興味が湧いた。捜査官の現実を目の当たりにしていく先で、彼女はそれでも同じ瞳をしているだろうか。
「そうだな……何かあれば言うよ、名前」
「あれ?私……名前……?」
「廊下に掲示してあっただろう?」
「あー!そうでしたね!でもあんなの誰も見ていないって思っていました。赤井さんはさすがですね」
「……知っていたのか?」
「もちろんですよ。恐らく銃を扱う人で“赤井捜査官”を知らない人は居ないと思います」
「……そうか、」
「アカデミーでも凄く話題になっていましたからね!でも本当に、凄いですよねー。どれ程努力しても届かない、天性の才能だって先生も言っていました」
どこか他人事のように話す口ぶりは新鮮だった。噂で聞く″赤井捜査官”と目の前にいる男を分けて考えているような。その真意は分からないが、この距離感は意外にも悪くない。会話を続けてやってもいいと思えるくらいには。
「……そうらしいな」
あえて“赤井捜査官”を他人事のように言ってみれば、名前はくすりと笑った。まるで悪戯が成功したとでもいうような、そんな少女のような笑みが良く似合っていた。