出会った日

 例の組織から離脱し、俺は本国へ戻ることを余儀なくされていた。上からの指示で日本に戻ることも許されない状況には、苛立ちを感じずにはいられない。この際少しは休めと、口を揃えて言う仲間たちを避けるようにしては今夜も一人、地下にある資料室を目指していく。

 もう何度も目を通している捜査資料。そこに手掛かりが残っているとは思えないが、組織の関与が疑われる事件を今もなお取りこぼしている可能性もゼロでは無かった。

「……っ」

 質素な階段を降りていくと、廊下に部屋の明かりが漏れている。どうやら今夜は先約がいるようだ。厄介だなと、この場を引き返そうと考えるも何故かこの時は興味が湧いた。

 中を覗くと見慣れない小柄な背中が目に入る。机の上に大量の捜査資料が乱雑に置かれており、作業中であることは明らか。彼女は棚から幾つかのファイルを取り出し、抱え込もうとしている。

「取り込み中悪いが、」
「っ、ぅあ、っ!!」

 無意識のうちに気配を消していたせいか、彼女を想像以上に驚かせてしまったようだ。落としそうになったファイルを何とか抱え直しながら、彼女が慎重に顔を上げる。漆黒の、真っ直ぐな瞳が印象的だった。

「すみません、びっくりして……っ!」

 日系人らしいその顔立ちには、どこか親近感を感じる。三年もあちらで過ごしていた上、己の血も半分は日本人なのだからそれもおかしくは無い。

「いや、」

 妙な思考から意識を逸らすように、大量の資料で埋め尽くされている机へ視線を向ければ、彼女が急に慌て始めた。両腕で資料を隠そうとしながら、ややそそっかしい動きでこちらを見ている。

「あ、あのっ!これは、決して散らかしている訳ではなくて、ちゃんと整理?しているんですけど、結果的には散らかっているといいますか……」

 邪魔ですよね、とスペースを空けようとしているのだが、その必要は無いと片手を上げて伝えてやる。元より、人が居るのなら別の場所で作業をするつもりだった。

「じゃあ……えっと、こっちの棚は既に仕分けが済んでいるんですけど、こっち側はまだ、」
「構わうな、勝手にするさ」
「でも此処にある資料、乱雑に置いてあるだけみたいで、きっと探すのに時間が……」
「君は此処の管理人だったか?雇ったという知らせは聞いたことがないが」

 気づけば口から皮肉めいたことを溢していた。彼女が捜査官であるのは、数週間前に廊下に張り出されていた掲示で見た記憶により確か。“捜査官である君が何故こんなことをしているのか”と、遠回しに投げかけたのだが。

「そう、なのかもしれませんね」

 僅かに笑みを浮かべながら、彼女は肯定してみせる。

「実は私、まだこのビルから出たことなくって……あ、もちろん仕事中にっていう意味ですよ?」

 このビル、というよりもこの部屋から出ていないのだろう。本棚を見つめている瞳は悲しげだった。

「私、いる意味、あるのかなって……思ったりしますけど、でも、嘆いていても仕方がないので、いっそのこと資料整理のプロとして名を挙げてみせようかなって思っています!この資料も、頭に入れたらきっと役に立つことだってあるって」

 それで、何をお探しなんですか?と、彼女は気持ちを切り替えたように視線を寄越してきた。先程までとは打って変わり、キリッとした表情は意外にも頼もしい。一方で捜査官にしては随分と小柄な子だと、その手首の細さに思わず目を疑う。その腕で一体、何ができるだろう。

「あの……?」
「製薬会社に関わる、過去の事件について調べている。十五年以上前のものが対象だ」
「ん、それなら!」

 彼女は目を輝かせながら奥の部屋へと駆けていった。その後を追いながら、自分でも資料を探そうとダンボールに書かれた日付を追っていると、何やら大きな音が聞こえてくる。見れば小さな上半身が隠れそうなほど大きなダンボールを抱えているものだから、さすがに足が動いていた。だがそれも杞憂に終わり、彼女はダンボールを難なく膝の上に乗せると更に太いファイル数冊を乗せてやってくる。

「あ、大丈夫です!そっちに持っていきますねー!」

 確かにアカデミーを卒業し正式に捜査官として配属されたのなら、この程度どうってことはないのだろうが、どうにもまだ彼女が捜査官だという認識が出来ていない。それほどまでに、彼女にこの世界は似つかわしくなく、異質に見えた。

「えっと、今から十五年から二十年程前に起きた事件はこれで全部です。それ以前となると……」
「いや、ここまでで構わない。助かるよ」

 これほどの量を数分の間に用意し切ったのだから、資料整理のプロというのはまんざらでもないのだろう。だが、その記憶力は本来別の場所で発揮すべきだ。それを口にしないまま、俺は椅子に腰を下ろした。同じチームでもない彼女が今後どのように仕事をしようが関係ないこと。不要な会話は避け、本来の目的を遂行しようと資料に手を伸ばす。

「……何だ、」
「い、いえ……っ」

 集中しようにも視線が気になって声を掛ければ、彼女は口篭った。その姿はどうにも苛立ちを覚えてならない。

「どいつもこいつも、」
「……え、?」
「そうして我慢することが、何故正しいと思う?話し合う場を自ら放棄するなど馬鹿のすることだな」

 そう口走った直後、言いようのない居心地の悪さに舌打ちをしたくなった。何を苛立っているのだろう。構う必要のない相手なはずだ。

「放棄したわけじゃ、ありません」

 しかしその時、彼女の凛とした声が資料室に響き渡る。

「私はただ……やっと、誰かの役に立てたような気がして、嬉しくて。でも捜査官なのに、こんなことで喜んでいたら、それははそれで恥ずかしいなって。そう思って言い留まっただけで」
「……」
「だから、その……ありがとうございます、って本当は言いたかったんですけど、でも、なんかちょっと悔しいですねやっぱり」

 とりとめのない言い分は半分も理解できなかったが、沈んだり、華やいだりする彼女の表情には目を惹かれる。新人特有のものだろうか。いや、彼女の性格故だろう。少し砕けたような、それでいて柔らかい雰囲気は、敵意はもちろん嫌味の一つも感じられず清いまま。他人の心をも溶かす、不思議なあたたかさがあった。

「とにかく!もし何か追加で必要なことがあれば言ってください。私はこの通り、手だけは空いているので!」

 真っ直ぐすぎる瞳は、どうにも眩しすぎて目を反らしたくなってしまう。今の自分には無いものだった。しかしこれから彼女は、捜査官の現実を目の当たりにしていくのだろう。そしてその瞳もいずれ……。

「あのー?」
「……そうだな。何かあれば言うよ、名前」
「っ、あれ、私……名前……?」
「廊下に掲示してあっただろう?」
「……あー!そうでしたね!でもあんなの、誰も見ていないって思っていました。赤井さんはさすがですね」
「……知っていたのか?」

 他の支部から来た捜査官や、ライフルを扱う者と初めて対面する際は大体、「あの赤井秀一だ!」と大袈裟な反応をされることが多い。尊敬、畏敬の念を込めて言っているのだろうが、その後の会話も含め全てが億劫で、名を名乗るのも面倒だと、米国に帰ってきて余計に思うようになっていたのだが。

「もちろんですよ。恐らく銃を扱う人で、“赤井捜査官”を知らない人は居ないと思います」
「……そうか」
「アカデミーでも凄く話題になっていましたからね!でも本当に、凄いですよねー。どれ程努力しても届かない、天性の才能だって先生も言っていました」

 どこか他人事のように話す口ぶりは、新鮮に感じられた。噂で聞く″赤井捜査官”と目の前にいる男を分けて考えているような。その真意は分からないが、この距離感は意外にも悪くない。会話をしてやってもいいと思えるくらいには、心地よく感じた。

「……そうらしいな」

 あえて、“赤井捜査官”を他人事のように言ってみれば、名前はくすりと笑う。まるで悪戯が成功したとでもいうような、そんな少女のような笑みが良く似合っていた。